サイト運営主の雑記

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator) 、メモ

序章:好きなこととは何か

ラッセルによると人々の努力によって社会がよりよく、より豊かになると、人はやることがなくなって不幸になるという。

経済学者ジョンガルブレイスは「ゆたかな社会」で現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている。広告やセールスマンの言葉によって組み立てられてあ初めて自分の欲望がはっきりするのだ。と述べた。高度消費社会(彼のいう豊かな社会)においては供給が需要に先行している。いやそれどころか供給側が需要を操作している。つまり、生産者が消費者に先行してあなたが欲しいのはこれなんですよと語りかけ、それを交わせるようにしている。

そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなど持っていたのか??

20世紀には大衆向けの作品を操作的に作り出して大量に消費させ利益を得るという手法が確立された。そうした手法に基づいて利益を上げる産業を文化産業と呼ぶ。

「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。

暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何の中分からない。そこに資本主義がつけ込み、文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合の良い楽しみを人々に提供する。

なぜ暇は搾取されるのだろうか。それは人が退屈することを嫌うからだ。比とは暇を得たが、暇を何に使えば良いのか分からない。このままでは暇の中で退屈してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備用意された快楽に身をゆだね、安心を得る。では、どうすればよいのだろうか。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか。そもそも退屈とは何か。

こうして、暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いが現れる。「暇と退屈の倫理学」が問いたいのはこの問いである。

イギリスに社会主義を導入した最初期の思想家であるモリスは革命が到来すれば、私たちは自由と暇を得る。そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだと述べた。

これを発展させると次のように述べることが可能ではないか。

「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」

近大は様々な価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑いえる。

人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命をかけても達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見当たらない。だから、大義のためなら、命を捧げることすら惜しまない者たちがうらやましい。

大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。

生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうした中に生きているとき、人は打ち込むこと、没頭することを渇望する。

第一章 暇と退屈の原理論

パスカル

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。

部屋にじっとしていられないとはつまり、部屋に一人でいるとやることがなくてソワソワするということ、それに我慢がならないということ、つまり、退屈するということだ。多々それだけのことが、パスカルによると人間のすべての不幸の源泉なのだ。彼はそうした人間の運目にをみじめと呼んでいる。

人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求める。賭けごとをしたり、戦争をしたり、名誉ある職を求めたりする。

愚かなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているにすぎないというのに、自分が追い求めるものの中に本当に幸福があると思い込んでいる、とパスカルは言う。

みじめな人間の運命から目をそらしたいから、狩りに行くのである。狩りをする人が欲しているのは、不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわせてくれる騒ぎに他ならない。それにも関わらず、狩りをする人は狩りをしながら、自分はウサギは欲しいから狩りをしているのだと思い込む。

こう考えてくると、気晴らしは要するに何でもよいのだという気すらしてくる。退屈を紛らわしてくれるなら何でもいい。しかし、条件はある。気晴らしは熱中できるものでなければならない。

熱中できなければある事実に思い至ってしまうからである。気晴らしの対象が手に入れば自分は本当に幸福になれると思い込んでるという事実も、もっと言えば、自分だましているという事実だ。

パスカルははっきり言って言える。気晴らしには熱中することが必要だ。熱中し、自分の目指しているものを手に入れさえすれば自分は幸福になれると思い込んで、自分をだます必要があるのである。

ニーチェ

ニーチェは退屈な若いヨーロッパ人を見て自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き脱したから何としてでも何かに苦しみたいという欲望を持っている。と述べた。

苦しむことはもちろん苦しいが、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しい。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。

実際10世紀の戦争においては、祖国を守るとか、新しい秩序を作るとか言った使命を与えられた人間たちが、喜んで苦しい仕事を引き受け、命さえ投げ出したことを私たちはよく知っている。

ラッセル

近代社会が実現した生活には何かぼんやりとした不幸の空気が漂っている。

現代人の不幸、すなわち、食と住を確保できるだけの収入と日常の身体活動ができるほどの健康を持ち合わせている人たちを襲っている日常的な不幸。

日常的な不幸には飢餓や貧困や戦争といった大きな非日常的不幸とは異なる独特の耐え難さがある。何かといえば原因が分からないということである。なので逃れようにも逃れられない。

退屈とは何かに対するラッセルの答え:退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの。「事件」とは今日を昨日から区別してくれるもののこと。一言でいえば退屈の反対は快楽ではなく興奮である。

幸福な人とは、楽しみ・快楽をすでに得ている人ではなくて、楽しみ・快楽を心から求めることができる人である。

彼が言いたいのは熱意を持って取り組める活動が得られれば幸福になれるということだ。ラッセルは幸福の秘訣はこうだと言う。

あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そして、あなたの興味を引く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できる限り友好的なものにせよ。

本物の熱意とは忘却を求めない熱意である。単に現実から目をそらす逃避や忘却のための熱意もありうるので。

スヴェンセン

退屈が人々の悩み事となったのはロマン主義のせいだ。ロマン主義者は一般に人生の充実を求める。しかし、それが何を指しているのかは誰にも分からない。だから退屈してします。

人生の充実を求めるとは、人生の意味を探すことである。前近代では一般に集団的な意味が存在し、個人の人生の意味を集団があらかじめ準備しており、それを与えてくれた。近代以前では共同体はある若者を一人前と認めるための儀式や訓練を良いし、個人はそれを乗り越えることに生きる価値を見出す。

あるいは、信仰がまだ強い価値と意味を保持していた時代は人間の生も死も宗教によって意味づけられていた。

しかし近代以降は生の意味が共同体的なものから、個人的なものになった。そこからロマン主義が生まれる。ロマン主義者は、生の意味は個人が自らの手で獲得するべきだと考える。とはいえ、そんなものが簡単に獲得できるはずはない。それ故、ロマン主義者たる私たち現代人は退屈に苦しむというわけである。

ロマン主義は普遍性よりも個性、均質性よりも異質性を重んじる。他人と違っていること、他人と同じでないことを求める。みんなと同じハイヤ、私は他人と同じでありたくない、私らしくありたい。

僕たち現代人はロマン主義者のように考えている。

私たちはロマン主義という病におかされて、ありもしない生の意味や生の充実を必死に探し求めており、そのために深い退屈に襲われている。だからロマン主義を捨てさるうこと。彼によれば、それが退屈から逃れる唯一の方法である。退屈と戦うただひとつ確かな方法は、おそらくロマン主義と決定的に決別し、実存の中で個人の意味を見つけるのをあきらめることだろう。

ラッセルの解決策が広い関心持つように心がけ、自分の熱意の持てる対象を見つけるべしという積極的な解決策であったとすれば、スヴェンセンのそれは、退屈の原因となるロマン主義的な気持ちを捨て去るべし、という消極的な解決策である。

どうやってロマン主義をすてるか?、またそれは可能か??

今自分のいる場所で満足しろ、高望みするなというメッセージに過ぎないのではないか?

暇と退屈の系譜学

確かに近代において、退屈はそれまでにないほど強く意識されるようになった。伝統的共同体が崩壊し、自由が認められるようになり、様々なものや情報が過剰に供給されることになった近代。そこでは退屈は重い悩みの種である。だが、退屈を近代から考えてしまうと、退屈の理由を社会の側に求めることになってしまう。人類史の視点で考える必要がある。一つの視点として定住革命がある。

定住革命

人類は約一万年前に中緯度帯で定住する生活を始めたことが分かっている。二足歩行する初期人類は遅くとも400年前には出現したと考えられている。人類が遊動生活を放棄し、定住生活を始めたのは最近だ。なので人類の肉体的心理的社会的能力や生活様式はむしろ遊動生活にこそ適している。

遊動生活では新しい環境の中で、生活のために必要な情報や資源を素早く入手しなければならない。つまり、遊動生活がもたらす負荷こそは、人間の持つ潜在的能力にとって心地よいものであったはずだ。自分の肉体的心理的な能力を存分に発揮することが強い充実感をもたらすであろうことは想像に難くない。そして、定住生活ではその発揮の場面が限られてくる。

暇と退屈の経済史

暇とは何もする必要のない時間で人のあり方や感じ方とは無関係で、つまり客観的な条件にかかわっているが、退屈とは何かをしたいのにできないという感情や気分を指しており、主観的な状態を表す。

定住は人類を能力の過剰という条件の中に彫り込んだ。人類はそれに対して文化という営みを発展させてきたが、それと同時に、絶えざる退屈との戦いを強いられた。だが、有史以来の政治社会、身分制、権力の偏在、奴隷的労働などが、大多数の人間に恒常的な暇を与えることを許さなかった。しかし、資本主義が高度に発達し人々は暇を得た。それは近代人が求めてきた個人の自由と平等の達成でもあった。

退屈は近代社会が生み出したものではない。人間と退屈の付き合いは人間の生活様式に関係しているのである。

暇と退屈の疎外論、贅沢とは何か

浪費:必要を超えて物を受け取ること、満腹になるなど際限がある。

消費:ものに付与された官憲や意味を受け取ること、際限がない。永遠と繰り返されるのに満足がもたらされない。

労働は今や、忙しさという価値を消費する行為になっている。彼らが労働するのは生きがいという観念を消費するためだ。

余暇は活動が停止する時間ではなく、非生産的活動を消費する時間である。余暇は俺は好きなことをしているんだぞと全力で周囲にアピールする必要がる。逆説的に何かをしなければならないのが余暇という時間だ。

消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む。ここには暇が入り込む余地はない。

疎外とは人間が本来の姿を喪失した非人間的状態のことを指す。

消費社会における疎外された人間は労働を強制させられたろう堂宇者とは異なり自分で自分のことを阻害している。

疎外と本来性はニコイチである。疎外を考えることで本来の人間のあるべき姿が必然的に想定される。本来性が規定されるとそれから外れる人は排除されることになるため、本来性および疎外の議論は危険視され、用いられなくなった。

現代の退屈は、疎外と呼ばれるべき様相を呈している。

ルソー:自然状態、政府や法などが何もない状態ではどのように生きるのかについて考えた。所有のない状態では、自由だ。人々は善良に暮らしている。人間い不幸をもたらしたのは文明社会であり、文明社会こそが人間に疎外をもたらしたのだと、彼は主張する。所有は複数の人間が共通の法秩序に従う前提で成り立っている。所有がなければ人を隷従させることはできない。

ホッブズ:万人の万人による逃走。人は個体差があったとしてもどんぐりの背比べ程度で、平等である。そのため、希望の平等もある。あいつは持っているのに俺が持っていないのはおかしい。奪おうとなる可能性があるので、常に警戒している。
ただ、この理論に対してルソーはこれは所有という概念を有する社会を前提としているという。

自己愛:自分を守ろうとする気持ち、

利己愛:他人と自分との比較にもとづいて、自己を他人よりも高い位置に置こうとする感情、社会状態を前提とし、構成員全員が平等な権利を持つと前提して初めて、恨みなどの感情が生まれる。平等であるとの信念故に生じる否定的な感情。ルソーはこれを総称して利己愛と呼んだ。

ルソーが主張する自然人は善良であるというより、邪悪なことができないしする必要がない。ルソーの自然状態の話を知ることで、「ああ、人より高い場所に自分を置きたいという気持ちは、文明社会だから出てきた気持ちであった、人間の本能なんかじゃないんだよな」と思えるわけである。←でも、狩猟採集時代で余裕の概念がないとしても、集団生活をするうえで、集団内で地位を上げることは生殖に重要であるから、自然選択的に、自分を人より高い場所に置きたいという心理はあったと思うけどなぁ。

暇と退屈の哲学

やるべき仕事がないと、人は何もない状態、むなしい状態にほっておかれることになる。そして、何もすることがない状態に人間は耐えられない。だから仕事を探すのである。

なぜ私たちはぐずつく時間によって引き留められると困ってしまうのか。それは何もないところ、むなしい状態に置かれることになるからである。何もすることがない、むなしい状態に人間は耐えられない。だから退屈とともに台頭してくる空虚状態へと落ち込まないために何かやるべき仕事を求める。以後むなしい状態にほっておかれることを、空虚放置と呼ぶ。

退屈の形態

第一形態:駅で列車を待つときに感じられた退屈。時間を失いたくないと思っているから。仕事の奴隷。第三形態からくる、声を聴きたくないから仕事の奴隷となり、第一形態の退屈を感じる。

第二形態:何かに際して退屈する。何かこそが気晴らし。パーティー

第三形態:何となく退屈だ。退屈という気分が私たちに告げて知らせていたのは、私たちが自由であるという事実そのもの。ハイデガーは退屈する人間は自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよ。と。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ。

普段人間は何となく退屈だという声を押さえつけるために、仕事の奴隷になったり、退屈とまじりあった気晴らしにふけったりしている。

ハイデガーの主張を本書の文脈でまとめると

人間の大脳は高度に発達してきた。その優れた能力は遊動生活において思う存分に発揮されていた。しかし、定住によって新しいものとの出会いが制限され、探索能力を絶えず活用する必要がなくなってくると、その能力が余ってしまう。この能力のあまりこそは、文明の高度の発展をもたらしたが、同時に退屈の可能性を与えた。
退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間の能力なのでなくすことはできない。そのため、パスカルの言うとおり、人間は決して部屋に一人でじっとしていられない。どうしても「何となく退屈だ」という声を耳にしてしまう。
人間は何とかしてこの声を遠ざけようとする。わざわざ命を危険にさらしたり、狩りやかけ事に興じる。だが、そうした逃避も退屈の可能性そのものに対しては最終的には無力で人間の奥底からは「何となく退屈だ」という声が響いてくる。

暇と退屈の人間学

環世界論から見出される人間と動物の差異は人間がその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているということ。

暇と退屈の倫理学

決断という狂気を求めて、目をつぶり耳をふさぎ、周囲の状況から自分を故意に拒絶する。周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。決断という狂気の奴隷になることに他ならない。実はこんなに楽なことはない。
あらゆる配慮と注意を自らに免除し、ただひたすら決断した方向に向かえばいい。しかも何となく退屈の声も聞こえない。決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。

人間は普段第二形態がもたらす安定と均整の中に生きている。しかし、何かが原因で何となく退屈だの声が途方もなく大きく感じられる時がある。その時、第三形態=第一形態に逃げ込み、周囲に故意に無関心となりひたすら仕事やミッションに打ち込む。好きだからではなく、奴隷となることで安寧を得る。

将来を思い悩む大学生にとって自分に何ができるのか、どんな仕事があるのかを考えるのは苦しくて、何をしていいのかわからない。そんなとき「何となく退屈だ」の声が響いてくる。そういう時に、周囲のこうしておけばよいという声が聞こえて苦しさから逃れるために、周囲のアドバイスに乗っかる決断をする。ハイデガーはこれを狂気と呼んだ。好きで打ち込むのとは異なり内から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。

おそらく多くの場合、人間はこの声を何とかやり過ごして生きている。そのために退屈と気晴らしとのまじりあいの中で生きていて、「正気」の生を全うする。人間の生とは退屈の第二形態を生きることではないか。

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