健やかな論理
気になったところの引用と感想です。
健やかさが現れた空間には、それを崩壊させるほど不都合な何かを添えたくなる。
世間の大多数が信じている数式の中でのびのびと生きる人間特有の、通りの良い言葉たちが真っ直ぐに放たれていく。
人がいなくなることに前触れなんて何もない、という、健やかさからかけ離れた論理を視覚的に実感できたとき、いつだってずっと少しだけ死にたいような自分に暖かい毛布を被せてもらえたような気持ちになった。
なんてことない投稿を最後に更新が止まっている様子は、突然ぶった切られた人生の断面図をこちらに見せつけているようで、爽快だ。
同時に、まだ乾いておらずぬらぬらと光っているようなその断面は、日々〝死ななかった〟という 籤 を引き続けているだけの、自分自身の生の不安定さそのものだと感じた。
誰もいない部屋に届く再配達の段ボール。 友達とも恋人とも家族とも誰とも共有しない独りの時間に潜む、圧倒的幸福。 そばにいてくれる人と繫がりながら襲い来る、今すべてが終わってしまえばいいという強大な破滅願望。 発生した原因に悪意の欠片も過去のトラウマも何もない、人を傷つける言葉。恵まれない子どもたちのために学校を建てたその手で握る性器やナイフ。 健やかな論理から外れた場所に 佇む解しか当てはまらない世界の方程式は、沢山ある。
自分が今いる場所。 なんか、もう、いっか。 って、思ったんだろうな。 わかるな、なんか。こういうことがあった辛くてたまらないもう死にたい死にたい死にたいって助走があるわけじゃなくて、ふと、なんか、別にもういっか、ってなる瞬間。いきなり風が吹いたみたいに、わって。よくわかんないけど、めちゃくちゃよくわかる。 並んでいた列が、動いたような気がした。自分の前には誰もいないのに。 ひとり分、スペースを詰めるみたいに、私は一歩、前へ進む。 そのときだった。
あるとき何の前触れもなくこの世界から消えてしまいたくなるときがあるように、何の前触れもなく、この世界にいる誰かを想う自分の存在を熱烈に感じるときがある。いつだって少しだけ死にたいように、きっかけなんてなくたって消え失せられるように、いつだって少しだけ生きていたい自分がいる、きっかけなんてなくたって暴力的に誰かを大切に想いたい自分がいる。
「離婚はかわいそう」
「彼氏ができたから、安心だ。」
「クレームを言う人は、現実が満たされていない人」
みたいな○○だから××という世間の多数側の人々が方程式(=穏やかな論理)は進化心理学的なのか、文化的なのか、生物学的なのか我々の社会の中でなんとなく共有されている。
こういう時はうれしいし、こういう時は悲しいし、こういうことはするべきではないとか、
方程式を感性として馴染んでいる多数派の人たちは、
全員がそう思う真理のように感じているかもしれないが、
穏やかな理論が肌になじまない人たちは、
多数派がのびのびと使っている論理を「自分はそうは感じないんだが」と思いつつも、輪を乱さないように彼らの論理に合わせる。
その努力に多数派の人が気づいていないのは腹が立つ。
例えば、誕生日祝いの時に
「誕生日を祝われるのはうれしいと思っているんだろうけど、何もうれしくないし、でも善意で祝ってくれている相手を無下にできないから、喜んでいるふりをしよう。あぁ、喜んでいるふりの演技疲れるわー」
みたいなことが普通に起こりうる。
でも、祝っている当の本人は「○○君も誕生日祝われて喜んでいる。そのうれしそうな笑顔を見れて私もうれしい!!」だとか
「誕生日わざわざケーキ買って祝ってあげているのに、もうちょっと喜ぶのが礼儀じゃないの。なんかやな感じ」みたいに思っていたりする。
感性のベースが集団の平均から離れている人は、意思疎通で重要な共感性を自然に発揮しづらいから、なんとか学習でカバーできても疲れたり、演技しているみたいになって、不利だなぁを思う。
人間失格の主人公とかまさにそのタイプだと思う。
「何も楽しくなさそうだけど、一般的に子供が好きとされる、獅子舞をお土産に欲しいと父親に言う」みたいに。
感性が一般からずれている人からしたら
お前らに合わせるために疲弊しているのに、それに無自覚で、多数派の方程式を押し付けてくるのは腹が立つんだよなぁ。